電波受験界03.10月号(私の撮影)

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電波受験界04.2月号の私の記事 60ページ


受験体験記 私はこうして合格した[電波受験界2001年12月号に掲載]

ライカ病より怖い免許病!?(写真家から技術士へ)              (1陸技・1海通)   上野 勲

1、 感染?(初めに)
私は放送局で報道カメラマンを30年やっているライカ病患者です。(ライカ菌は、ドイツのバルナック博士によって発見され、中年男性を中心に患者が増え、 A型、M型、U型、Vcなどのウィルスが有名で、不治の病と言われ、悪質な黒皮病などを発病すると、莫大な治療費がかかると言われている)

娘に買ってもらったライカVcモーター (1940〜45にかけて流行したVc型菌)

「放送局だったら一陸技は当たり前」と思う読者も多いと思いますが、大学では人物写真を専攻、入社した昭和46年頃のニュース映像は、 映画用の16mmフィルムを回す時代で、無線とは縁もゆかりもありませんでした。
こんな私でも、粘り強く足掛け10年も勉強すれば1陸技も夢ではない、ということを知って頂きたいのと、この際、電波界にもライカ菌をバラ撒こうという悪巧み? もあり、喜んで原稿依頼を引き受けました。

2、 無線菌?との出会い
 無線と全く関係ないはずの報道カメラマンにも、知らず知らずのうちに免許菌は忍び寄ってきます。
報道には保菌者はいませんでしたが、そこは放送局、まわりには1技だの1通だのという保菌者がゴロゴロいました。そんなある日、 技術系の仲間と数台の車の分乗して、スキーにいく機会がありました。
相互連絡はアマチュア無線、せまい道での追い越しでは、先行車が「このトラックが過ぎたら、対向車はなくなるから追い越していいよ。」 などと後続の車に連絡します。
「便利だなー」と思った瞬間、免許病菌は体内に入ったようです。
しかし、しばらくは発病せず、誘われて電話級アマチュア無線技士(4アマ)を受験するも見事不合格、というのも、高校時代は数学で0点を取り、 名誉?ある赤点をもらったこともある健康体?だったからです。
しかし、昭和54年頃には、ニュース映像も16mmからENG(ビデオカメラ)に変わり、我が母校、東京写真大学(東京工芸大学)でさえ、 私に断りも無く!電子工学科を設立する時代になっていました。
電磁波である光を扱う以上、写真と電波は無関係でいられる訳がないのかもしれません。
その頃の私はまだ、バンドやオーディオに夢中で、仕事の合間には、ラジオ技術の部屋で「無線と実験」を読んではいたものの、 もっぱらミキシング講座だけでした。

弾いているのはマーチンの12弦ギター(メンバーの結婚式でギターを弾いている私)

3、発病?ヘ
車の購入をきっかけに、ラリークラブに加入。(我々50代は「ベンチャーズ」でエレキを、サファリラリーを描いた映画「栄光への5000キロ」 でラリーの魅力の取り付かれた年代なのです)
主催ラリーの経過報告のため、4アマが必要になり、5度目の挑戦の末、世にも恐ろしい無線免許獲得症候群の世界に足を踏み入れてしまいましたが、 この時点では、まだ発病したとは思っていませんでした。

4、恐怖の人体実験?
 昭和63年、世はSNG(衛星中継)時代に到入、報道カメラマンがどれだけ無線に免疫があるか、系列局を挙げて人体実験?が行われることになり、 私が、東京で開かれる2週間の多重無線設備(1陸特)の講習会に参加させられる事になりました。
 まるでお経のような講師の声、幾何学模様のような教科書と睡魔に耐える地獄の日々。
酒も控え、好きな「詰め将棋」の本もしまい込んでの修行の甲斐会って、ありがたい多重無線設備のお札(ふだ)を頂きました。
しかし、それと同時に、より強力なウィルス菌をうつされたようです。
ある日、気が付くと、手には電鍵、耳にはCW練習用受信カセットのイヤホン、口ではトツー、ツートトトと口走るようになっていました。
電信級アマチュア無線技士(3アマ)は、1ヶ月の修行で一発合格。
2アマは、中学3年用の参考書も買って、因数分解の勉強からやり直しましたが、CWの受信でつまずき2度目でクリア。
 1アマは3度目の正直でなんとか合格。
 当時の1アマの電気通信術は、和文もあり、これで苦労したので、国内電信級と3総通もあわせて挑戦、毎日10分間のテープ受信と電鍵での送信練習を、 出勤前、昼休み、出張先、移動の車中と、時と場所を選ばず欠かしませんでした。
 海外出張の飛行機のなかで電鍵を叩いていると、パーサーに「送信しているのではないか?」と心配されて、覗き込まれることもありました。

南国の楽園も仕事をするのはつらい(右側のカメラマンがモルジブ取材中の私)

また、テレビとラジオで、物理 、英語T、U、数学T、Uを、数学Vの教科書も買って勉強しました。
文化系出身で、数学Vとは縁がありませんでしたが、教科書1冊がわずか3ヶ月で読了でき、「学生時代に、数学が苦手だったのは何だったのか。」 と自分でもびっくりすると同時に、教科書の優秀さを再認識しました。
しかし、国内電信級と3総通は、5度受験しましたが、いつもCW受信で不合格、「遅れ受信」ができないのを「年のせい」にして、あきらめました。
 業務英語は、電気通信振興会の参考書で、英会話は、会社にアルバイトにきていた米国人留学生にお願いして、テキストを読んでもらい、 練習用テープを作成しました。
 航空通の無線用語は、電波受験界の読者プレゼントで頂いた、「航空通信入門」を使いました。
 素人にはむずかしい計器飛行に関する専門用語は、我社がチャーターしている報道ヘリのパイロットに、専門書を借りて勉強しました。
試験会場では、JASのパイロットなどに混じって受験しましたが、英語の試験では、私が辞書を片手に汗だくになっているのに、制服パイロット組は、 涼しい顔をして早々と出て行きます。
しかし、無線工学の試験では、手こずっている彼らを尻目に、この時とばかり時間を余らせて試験会場を出ました。 
この時期は、海上通信士など、資格免除が生かせる資格はほとんど受験しました。

5、 病鴻毛
1アマが終わって、2陸技の問題をめくって見ると、無線工学の基礎は、1アマと大差がないように見え、さっそく挑戦を決め、 万全を期して1総通の予備試験の願書も出しました。
その年のクリスマスイブ、きっとサンタクロースが持ってきてくれたのでしょう、予備試験の結果をしらせる葉書には、 (雨で字がにじんで、読みにくかったのですが)合格の判が押してありました。
本当に合格しているかどうか不安だったのでので、電監まで確認に行きました。
私の会社は電監の隣でもあり、又、再三の受験で、すっかり顔なじみにもなっていた検定課のおねえさんは、「合格にまちがいありません。」と笑顔で答えてくれ、 その場で「1総通を棄権されても、受験票は送付されます。」とやさしく教えてくれました。(でも、今は電監による試験はありません、残念)
「ヤッター、これでプロへの道が開ける。」
実は、この合格が一番嬉しかったような気がします。

6、2陸技受験
 2陸技の参考書は、電気通信振興会の関連出版物をすべて購入、足らないところは、電波受験界の過去問の詳解をコピー。
無線工学Aは、過去10年間の問題すべてを、ルーズリーフ見開きに問題と正解を分けて綴じ、頭だけでなく、手でも覚えさせるため、 正解を何度も鉛筆で書き写しました。
 最初は、1問理解するだけで1時間以上かかっていましたが、覚えにくい個所にはアンダーラインや蛍光ペンで印をつけて暗記しました。
 無線工学Bも基本は同じですが、これまで興味がなく見たことも無かった送信アンテナや導波管などは、送信所や社内の機材倉庫で現物を見せてもらいました。
 どうしても解けない問題は、頭を下げて何度も、1陸技の後輩に教えてもらいました。
 この頃の試験は、まだ記述式で、ILSの説明を求める問題では、映画「ダイハード2」で、アウターマーカーを変調してジャンボ機交信する場面も引用し、 解答しました。

7、1陸技受験
2陸技と似ているようでも、1陸技の無線工学の基礎は、何度やっても、既出問題が30点ほどしか取れませんでした。
そこで2陸技取得後3年待って、業務経験で、無線工学の基礎と法規の免除を受ける作戦に切り替えました。
 しかし電波法の改正で、無線工学の基礎に合格していなくても工学A、Bが受験できることになり、予定より半年早く受験開始。
 解答形式も、記述式から択一式に変わったため、無線工学Aは少しやさしくなったような気がしましたが、念のために2陸技の復習と、 伝送交換主任技士の問題も全部コピーしファイルをつくり出張中の新幹線のなか、取材の待ち時間も利用して、暗記と計算を繰り返しました。
無線工学Bは、択一式に変わったことで、出題範囲がものすごく広がり、これまで見たこともないフィッシュボーンアンテナのようなものまで出題されるようになり、 過去問をやっただけでは合格できませんでした。
 そこで新問対策に、オーム社の「アンテナハンドブック」を購入(高かった)、3度目の正直でやっと合格しました。

不合格通知も沢山あります (これまで受験した試験の結果通知)

8、免許ウィルスの蔓延
私の免許病は、多くのの人に伝染。
 某メーカーのサービスマンはアマチュア無線技士を、報道ヘリのパイロットと整備士は1陸特を、報道アルバイトだった工学部の女子大生は、 在学中に1陸技の受験を始め、他社に就職したあと1陸技に合格、技術者としてわが社に再就職するという重症患者になってしました。
私が作った電波受験界のバックナンバーのコピーは、技術系の後輩たちの間で引き継がれ、思わぬ人に「お世話になりました。」と礼を言われ、 びっくりすることもありました。
 足かけ10年、この間に試験実施機関や、受験科目が大きく変わり、電監と無線協会を何度も行ったり来たりと翻弄され、また、 参考書とCW練習用テープなどにかかった費用は、20万円を軽く越えてしまいました。



9、家族の介護?
 免許病の治療に、家族の介護を期待してはいけません。
 私の場合は、協力が得られるどころか、「家庭サービスを犠牲にして、趣味?で免許を取っている、いいがげんにやめなさい」と、随分足をひっぱられました。
 ただ、高校1年くらまいで、数学と英語を子供に教えてやれたのが、唯一の家族への還元だったでしょうか。

10、病気の転移?(最後に)
 1陸技の「お札(ふだ)」をもらって完治するはずだった免許病ですが、転移したらしく、科目免除がある有線関係の資格もほしくなりました。
 1陸技の真性患者の証明書をもらうと、会社から治療費?が出ることも手伝って、まずは工事担任者を受験する事にしました。
 私は、下位から順に受験するという効率の悪い方法をとってしまいましたが、これから受験する人には、以下の方法をお勧めします。
 法規は難しくはないのですが、数字の単位が無線と異なり覚えにくいので、何度も受験したくないものです。
そこで、科目免除が使える、総合種の法規を先ず受験、ついでにアナログとデジタルのどちらかに絞り、例えばアナログ3種を受験します。
 そして次回は、1種も2種も大差はないので、アナログ1種と2種を同時受験。
 最後に、デジタル1種、2種を同時受験すればすべてクリアです。(但し、1種と2種を同時に免許申請するとデータ通信協会の窓口で、変な目で見られますよ。)
第1種伝送交換主任技術者は、覚える事が多いので、1科目づつ受験するのがいいでしょう。
法規は、工事担任者とほとんど変わりがありません。
線路主任技術者も取りたかったのですが、専門科目の良い教科書がないので、実現できていません。
どなたか、教科書を書いてください。
[※2002年9月30日 「通信線路テキスト」が、日本理工出版会から出版されている]
 1陸技をとって3年、女房が持っていたので自分も欲しかった教員免許も、1陸技取得後3年の業務経験で申請しました。
 これで、マイクロソフトのアカデミーパックが買えるかも?
 ところで、話は違いますが、最近、将棋3段の免許推薦が届き、これで免許が22枚になりそうです。
 今は、気象予報士をめざして勉強も始めましたが、電離層やラジオダクトなど、なじみの深い用語もでてきます。
 何処までいっても免許病は、ライカ病と一緒で完治しそうにありません。
 最後に、写真やビデオ機材の裏話を書いた、超マニアックな私のホームページのアドレスを紹介しておきますので、興味のあるかたはご覧下さい。
 ただし、ライカ病がうつっても知りませんので、ご注意ください。

帽子を被れば怖いもの無し
[無線従事者免許]
電話級アマチュア無線技士 S54年12月
特殊無線技士多重無線設備  S63年 9月
電信級アマチュア無線技士  S63年11月
第2級アマチュア無線技士

H1年11月

電話級無線通信士 H2年 4月
特殊無線技士無線電話丙 H2年  4月
第1級アマチュア無線技士  H3年 6月
第1級海上特殊無線技士 H3年  8月
航空無線通信士 H4年 4月
第2級陸上無線技術士 H5年  9月
第2級海上無線通信士 H6年  5月
第1級陸上無線技術士 H9年  9月
第1級海上無線通信士 H9年10月
[工事担任者資格者証]
アナログ第3種 H  7年  5月
デジタル第2種 H10年  8月
デジタル第1種 H11年  1月
アナログ第2種 H11年  7月
アナログ・デジタル総合種 H11年  7月
[電気通信主任技術者資格者証]
第1種伝送交換主任技術者 H12年  9月
[教育職員免許状]
高等学校教諭一種(工業) H12年  9月
中学校教諭 二種(職業) H12年 9月
 

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